「旅する家」とは?

今回の話し合いで、『「旅家」とはなんだろう?』
という話が少し出てきたので、
僕がこの5年ほど活動する中でだんだん見えてきた、
「旅家とは?」ということについて簡単にまとめておきます。
(追記:・・といいつつ、めっちゃ長くなってしまいました。すみません)

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「旅する家」

「旅する家」とは、常陸太田の中で、以下2つの条件の達成をめざす、
人の繋がりであり、場であり、機会です。

<2つの条件>
①「やりたいことを、やりたい人がやりたいようにやる場であること」
②「何かをやってる人と、何もしてない人が、同時にいられる場であること。」

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僕は過去いろいろな集団で活動を行ってきましたが、
yusatoweb.com 参照
そんな活動は「みんなで(誰かと)◯◯する。」
という発想からまずは始まることが多くありました。

ですが、そうやって活動を重ねるほど、
「みんなで(誰かと)◯◯する。」というのは、不可能なんじゃないかと思うようになりました。

付き合いが深くなるほど、
それぞれ考えていることや、感じていることにますます違いを大きく感じるし、
「みんなで(誰かと)◯◯する。」ための複雑な責任やコストを、
それぞれに平等に配分しようとしがちですが、それもほぼ無理だと僕は思うようになりました。

そんな無理なことを、無理やり可能にしようとすると、
「本当はやりたくないことをやる人」が生まれてしまいます。
これが、すごく良くないです。

過去僕自身、立場的にそんな役回りも多くて、
「なんで自分がこれやってるんだろう?」と
思いながら活動しているときも多々ありました。

そして、そんな風に感じているときは、
やっぱり場や集団が良いものにならないという経験をたくさん積んできました。

反対に「良い集団の状態」というのは、
「やりたくてやっている人ばかりの状態」だということも、
経験の中でわかってきました。

「やらされてる」「無理してやってる」人は、
本人だけじゃなくて、見てる側も楽しくないです。

逆にやりたいことを本当に楽しんでやってる人は、
側にいる人も楽しくさせるし、自分も何かやりたくなるような「触発」を連鎖的に生み出します。
だから、そんな人ばかりの場が一番良いのだと思います。

もちろん、期限内にある目標を達成するために、
「やりたくなさそうなことを、一旦やらせる」手法をあえて使ったり、
「一致団結するように仕向ける」こともあるでしょう。

だけど、そういうのは、学校とかスポーツとか習い事とか、他に機会がいくらでもあると思うので、
旅家は「やりたいことをやりたい人がやりたいようにやる場」に
純粋に特化していこうと考えるようになり、①の条件が出来ました。

ただ、実はこの条件でやろうとすると、
「特に今やりたいことはない・・けど、なんかやりたい気持ちがある人」
という、「一見何もしてないように見える人」が、意外に多く現れることに気づいたりします。

やっぱり、みんなそれぞれに違う人間なので、
やる気が入るために必要な時間の長さの違いとか、集中力のペース配分の違いとかがあって、
「やりたいことをどうやるか」には、一人一人いろんな取り組み方の差があります。

思いついてバリバリやっていく人もいれば、
ぼ~っとしながら、いきなりスイッチが入る人、
じわじわ~っと進めてゆく人、
結局何も始まらなかったっぽい人。
それぞれいろんなやり方があります。

でも、それで良いのです。
「やりたいことをやりたいようにする」
というのがテーマなので。

いろんな人がいろんなやり方で取り組むこと自体、
僕にとっても「あ~こんなやり方があるのか~」
と、いろんな発見があってとても面白い。

もっと言うと、それは「いろんなやり方の発見」というより、
「いろんな生き方があるんだ」「いろんな他者がいるんだ」
という発見の面白さです。

集団で(もしくは他者と)活動する目的はここにあります。

最初に「みんなで(誰かと)◯◯する。」のは無理だ、無茶だと言いました。
でも実際僕たちは、一人で生きていくこともまた不可能です。多分。

人によって人数はまちまちですが、存在する限り
自分以外の他者と生きていく必要があります。
「みんなで(誰かと)◯◯する。」事にもどこかで向き合っていかなくてはなりません。

どうすれば良い形で「みんなで(誰かと)◯◯する。」ことができるのかという、
この難しくものっぴきならない課題について、何かしら訓練してゆくべきだと思います。

その訓練の一つが、「集団(他者)との中で多様な可能性を見出すこと」になります。
さっきの、「いろんな生き方があるんだ」「いろんな他者がいるんだ」という発見をする部分ですね。

言葉で書くとなんでもないように思えますが、
この訓練を現実の社会の中でやろうとすると、実は結構大変です。
現実の集団でいるからこそ、「ちゃんとしなきゃ!」の圧力がすごくなって、
そのせいで多様な可能性が見出せない。。。とか、

現実だからこそ、ある特異なあり方について、
「いろんな生き方があるんだな~面白いな~」・・・
なんて、のほほんとしてられない!すぐ対処しなきゃ!
という事も多いと思います。

なので、「みんなで(他者と)◯◯する。」ことの訓練は、
現実とは少し違う世界観の中でやるべきだと僕は思っています。

フィクションというか、空想に近いような世界観の中で、
一旦考えを広げてみると、いろんな答えや、可能性を想像できて、
今は真正面から向き合うのでは歯が立たない問題も、
何かしらの方法が見えてくるかもしれません。

実はここに、僕がアーティストであることが関係しています。

その方が効果的なので、最近はもう声高に言いませんが、旅家は「アート」から始まっています。
現実社会の世界観から始まったのではありません。
フィクションや空想に近い、「アート」という別の世界線から始まった活動なので、
ありえないあり方が許される場にしていこうと思っています。

そう言うとちょっと大げさですが、そこまで大層なことではなく、
ほんの少し捉え方を変えて、今見えていない物事に、可能性を見出すような
そんな感覚です。

例えばこの間の会議では、
大人が会議している時間、子供達は自由に遊んで良いことになっていたので、
ゲームやらお絵かきやらで、好き勝手やっていました。
実はあれも僕の中では「そうやって会議に参加している」と捉えていました。

同じテーブルに座って、話を聞いてはいませんが、
遊びながら大人たちの緊張感や、話がまとまった時の安堵感を感じているかもしれないし、
気にしていないようで実は聞き耳を立てているかもしれません。

テーブルの下に潜っていた子たちもいましたが、
頭上で話し声が交わされるのを、存在を消して聞き入っていたのかもしれません。

「何もしていない、遊んでいるのではなく、そうやって参加している」と捉えてみる。
そうすると、いろいろな可能性が現れます。

通常の会議の方法で、この前のように2時間話し合いに参加することは、
あの子たちにはきついと思います。というか無理ですね。

でも、このあり得ない参加の仕方をアリにすれば、
かなり長い時間付き合ってくれるでしょうし
(ずっと遊べるから、終わるな!って思うくらいかも)、
むしろそうやって参加した方が結果的に、
彼らにとっては心に残る言葉や、雰囲気を得られるかもしれません。

ただそうすると、子供達は議題を追うことも、発言をすることもほぼないので、
あれが会議か?参加したのか?と懐疑的に感じる人もいるでしょう。
会議だけに。。

でも、「あれが旅家の会議なんです!」と言い切れます。
それは、その根っこに「アート」があるから。

現実の会議の形式に囚われていると、
卓について、議題を把握し、言葉を交わす・・・みたいなことが求められると思いますが、
それだと参加できない子がものすごく多くなります。多分ゼロ
また、そのような形式自体が子供達にとって本当に重要なのかも微妙です。
(そういった形式が大事だと思うのは、大半がこちらの都合であることが多いです)

この前の場だと、一番重要なのはそういうことではなく、
「自分たちのことについて、大人が真剣に話している」
ということが伝わることだと僕は思っていて、
そのために求められることは、「会議の間中、同じ空間にいる」ということだと思ったので、
全員がそうできるような、今回のようなやり方にしてみました。

で、これは別に子供だからの話ではなく、
別に大人であっても会議が好きな人なんていうのはあんまりいないわけで、
参加するならもっと楽しい会議にしたいなぁ~とか思ってる人も多いわけです。

で、そんな楽しい会議のヒントが、
もしかしたらこの前の子供達の振る舞いにあったかもしれなくて、
机の下に潜って会議してみたり、各々別のことをしながら会議したりとか、
普段はあり得ない会議のやり方が、あの日があったことで、
こちらもまだ気付けていない会議のあり方を想像できるようになったりします。

実はそのやり方でやってみたほうが、広がる可能性があったりして、
「あり得ないこと」が「アリ」になるとき、
見たこともない価値や可能性が生まれたりします。

そんな風に、まだ見えていない価値や役割に、眼差しを向けて育むこと。
それが「アート」という特殊な世界の、ひとつの役割なのだと思います。

何か特別な表現を行うことがアートの本質ではありません。
それは結果であって、根本にはこのような「未価値なモノの価値化」がある思います。

モネもゴッホもピカソも、それまでは価値が見出されてなかった
描き方や捉え方を、表現する事で価値に変えていったから、面白いんです。

なので、活動の中でできるだけ豊かな可能性に出会う必要があって、
そのために集団にはまだ価値化されていない「いろんなありえなさ」が
限りなくあった方が良い状態なわけで、
それぞれの「やりたいこと」がたとえどんな形であっても、
全て受け入れられる場の方が良いわけです。

そこには、「何もしない」「やらない」というような、
一見ゼロやマイナスに作用しそうな「やりたいこと」さえ含まれます。

で、それは実際はまだこちらが気付けていないだけで、
実は目に見えない価値を創造していた、なんてこともよくあります。

そんな「何もしてない」ように見える、まだ目に見えてない価値が、
どこかで価値に変わる瞬間が僕はたまらなく好きです。

それは子供への目線で言えば、成長や変化していくことへの喜びに近いのかもしれません。

だから、「一見何もしてないように見える人」についても、
「その人のやり方で、何か価値創造をしているかもしれない」と常に捉えてみることも同時に必要です。

そういうわけで、
可能性の塊である「一見何もしてない人」は、とても大事なのですが、
やっぱり「あいつは何もやってない!」と思われてしまうような対立や、
「自分は何もしてなくて申し訳ない・・」という本人の焦りを生む可能性もあります。

そうなると、結局①「やりたいことを、やりたい人がやりたいようにやる場であること」
から遠ざかってしまうので、
②「何かをやってる人と、何もしてない人が、同時にいられる場であること。」という、
2つ目の条件を立てています。

この雰囲気は、5年間でだいぶ醸成されてきたかなと思います。
いい意味で、人が「やってないこと」にみんなあまり関心がなくて、
「ちゃんとしろよ!」という言葉は、旅家では出会った記憶がないです。

全然「ちゃんと」してなくていいです。
気を抜いていると、僕もちゃんとしてしまいがちなので、「ちゃんとする」ことは禁止したいくらいです。

というわけでまとめます。

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やりたいことを、やりたい人がやりたいようにやっている集団は、良い集団。

旅家は良い集団にしたいので、すべてのやりたいことを受け入れるために、
「一見やってない」ように見える人も、ちゃんといられる場にしたい。

全てのありようを認めることで、限りない多様性が生まれ、
そのことが「他者(集団)と生きてゆく」という、
とても難しいけれど逃れられない問題への可能性を見せてくれる。

このような場を実現できるのか、試すのに適しているのが、
現実とは異なった価値観を持ったアートという世界である。

ということで、再度

「旅する家」とは、常陸太田の中で、以下2つの条件の達成をめざす、
人の繋がりであり、場であり、機会です。

<2つの条件>
①「やりたいことを、やりたい人がやりたいようにやる場であること」
②「何かをやってる人と、何もしてない人が、同時にいられる場であること。」

と言うことになります。

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以上。

超絶長くなってしましましたが、
ざっくり言うと

とにかく、それぞれがやりたいことを楽しくやってもらって、
かつ、互いのやりたいことが何であっても受け入れて、
みんなバラバラでも、一緒に居られる場を作っていけたらいいね!
という感じです。

7月のかき氷のやり方を全員一致にしなかった理由も、ここにあります。
今年の旅家は、まず推進力として「みんなでかき氷屋を行う」という全体性がありつつ、
どんな運営を行うのかは、バラバラと言うか、あまり深く決めずその場に任せました。

結果、みんな好きにお店に立ってもらって運営すると言う、
バラバラでも、一緒に居られる場ができ、それがとても良い空間を生んでいたと思います。

で、今度はさらにハードルを上げて、そもそものかき氷屋さんへの参加も、全員ではなく好きに参加する。
というバラバラ要素を1段階上げた提案でした。

やりたい人と、そうでない人が自然に別れるなら、
別れた方が選択肢が広がって、そうでない人から、次のやりたいことが出てくる可能性や、
それにさらに感化されて触発が生まれる可能性があったからです。
(実際、射的のアイデアから、またいろいろ広がりそうなので楽しみです)

みんなを無理に一つにまとめるよりは、
バラバラで居ながらも、一緒に居られることに僕は価値を感じています。

もっともっとそんな場にできたらいいな~と思うので、これからもよろしくお願います!